自然の石は、そのまま石庭になるわけではありません。庭師が手を加えて石を理想の形に組み合わせて、はじめて立派な石庭が現れます。そこに造園技術の構想、作為、手法が必要とされます。
では、庭師はどのような心境や心構えで石を組んでいるのでしょうか。日本の造園教育の創始者である故上原敬二先生は、石を組む心境を説明していますので、その内容を見ていきましょう。
参考:上原敬二、石庭のつくり方、加島書店、1996
石を組む心境
石を組むということは庭園材料を美しく配列して、眺める心に美観を高める方法です。そういう意味では、石だけでなく、庭木を配植するのと根本の精神においては変わりません。
しかし、庭木には生命があり、植栽後に放任しておくわけにはいきません。そのため、全体が一目で容易に見られるように配植し、それを維持管理するのですが、この配植は、石の配石よりは容易となります。
動物には本能があり、植物には神経類似のものがあって、それらを巧みにとらえて駆使するところに造園材料としての機能が活かされます。これが庭木を扱う庭師の心構えと言えます。
そうすると石には何があるのでしょうか。石には石が持つ「勢い」というものがあります。ところが、石の勢いは、本能や神経のように、外面に具象的には現れません。しかし、この「勢い」があるからこそ、石は無心ではなく、石は生きていると感じることができます。そして、そこに一層息吹きを与えるのが、石庭作者の情熱であり、意欲なのです。まさにこれが、庭師の石を組む心構えなのです。
石を組む時の見本
石組の見本としては、日本全国に散在している渓流景や海岸景に求めることができます。偉大な自然律というものはこういうところに見ることができます。こうした自然景こそ、石庭設計上の師範と言えます。
ただし、風景の美を賞するのは表面的で、そこから深く掘り下げた深勝こそ、庭師にとって偽りのない師範直伝の秘訣です。とはいえ、これはどこまでも自然景の一部です。あるがままの姿であり、地形の拘束をうけ、水圧の圧迫を被っています。よって、審美的には欠陥も多くあります。これを理想化したものこそ石庭の神髄と言えます。
石庭の作庭にあたり、石を組むことは、美の形式原理を心得て行わなければなりません。それは、精神統一の成果です。あらゆる感情を石の形に応じて濃縮させ、その動き、勢いに照らして、躍動させ、その結果として完成した一つの具象に到達します。
石組の心構え
上原敬二先生は、石組の心構えとして12の内容を提示しています。
1.石の選び方にあまり迷うのはよくない。
2.置かれた石を一通り見まわし、その形をよく記憶する。
3.組み始めれば一気呵成に仕上げる。
4.気力のこもった時に組んだものは必ず出来栄えが良い。
5.もちろん自分が手を下して組むのではないが、この気魄が庭師にうつる。
6.長く考え、考え組んだものも悪くはないが、時に平凡である。
7.一息に立てたものは、どこか末梢部に欠点はあろうが、骨組となる中心部は傑出しているものである。
8.その欠陥となっている末梢部だけをあとから修正、手直しすればよい。
9.主石から組み始めるが、この据えつけについては、多少の欠陥があっても直観で可なりと信じた位置を定め、あまり手直ししない方がよい。
10.添石の方で主石を補ってゆく途はいくらでもある。時に欠陥と思われる形が添石がついたため特徴の活かされることさえもある。
11.この点ではむしろ石の搬入されたとき、車下ろしに際し、少し手間はかかるが石の主たる形が見やすいようにふりかえておく。この手直し手間は後から見ると、据え手間を節約することとなる。
12.置場所にある石が定位置に順々に運ばれ、据え付けられ、石の数が減少するにしたがって、据え手間が加速度的に減少するように工程を進めなければならない。
このように、あまり迷いすぎず、高い気迫で集中し一心不乱に組み上げることを是としています。これはある程度の経験を得て、何百もの石を触ってみないとできない技術です。
石を組むときの庭師は、時間も寝食も忘れるくらい、集中しています。如何に蝉の大合唱があろうとも、無音の中にいるかのごとく集中しています。これを石組は精神統一の成果であると表現しているのでしょう。石の1つ1つの勢いを見極める部分最適と、同時に組み上げたすべての石の勢いの総和である全体最適を、同時に考えながら順に組んでいくには、どうしても高い集中力が必要になります。そこに庭師の腕の見せ所があるのです。
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