日本庭園は飛鳥時代から現代まで脈々と受け継がれてきた日本の伝統文化の一つです。日本庭園は各時代を反映してその形や意味を変えてきました。しかし、世界から絶賛される理由は日本人の深い思慮を反映しているからでしょう。
日本庭園の特徴として自然風景式であることがあげられます。つまり、自然の景色を庭園として取り入れているということです。しかし、単なる自然の景色をイメージしたのではありません。重要なのは、そこに恣意的要素があるということです。恣意的とは、庭園デザインの中に施主や作り手の願いや希望が取り入れられているということです。だからこそ、その時代における思想がそのまま日本庭園デザインにも反映された経緯があるのです。
日本庭園は、恣意的要素があるがゆえに、より良くなることを願ったデザインが多く存在します。例えば、平安時代末期に世が乱れ、仏教の世界に希望を託して登場した浄土式庭園。戦国時代に勝利と繁栄を願って、大陸から伝わった神仙思想を取り入れた池泉式庭園の蓬莱島や鶴島、亀島。このように、日本庭園には時代をつくってきた日本人の縁起を担ぐ沢山のデザインが現代の庭園技術に伝わっています。
また、島根県出雲地方には独特の発展を遂げた出雲流庭園があります。今回は島根県出雲市内の個人邸に築庭した、出雲流庭園を基調として縁起の良い日本庭園を事例としてご紹介します。
縁起の良い日本庭園をデザインする
まずは、縁起の良い日本庭園をデザインします。今回のご要望は、石を配置した日本庭園と一部は畑としての利用です。
日本庭園は、大小に関わらず、基本的には部分的なポイントの集合体でデザインが構成されます。つまり、石を組んで山や滝をイメージした部分があり、亀をイメージした島があり、というように、それぞれポイントとなる部分が組み合わさって構成されています。よって、まずは敷地の大きさや使用できる素材の量を見極めていくつのポイントを組み合わせるかを決定します。ここでいうポイントとは、いわゆる見せ場ということになります。
今回はこの見せ場となるポイントを7つ盛込みます。下図が全体像です。実際に完成した写真とともに、それぞれのポイントを説明していきましょう。
枯滝石組と鯉魚石
向かって右側奥の立石は水を使わずに滝をイメージしています。方角年は南西の角になります。風水による方角としては裏鬼門の方角となり重要な場所です。
島根県出雲市には全国的にも珍しい発展を遂げた出雲流庭園があります。出雲流庭園においても裏鬼門の方角には必ず大きな立石が置かれます。そういった地域的庭園様式も意識してこの方角に立石による滝石組を据えています。この立石がこの庭の中で最も大きな石となります。
滝石組は、立石とそれに組み合わせた、両サイドの石を合わせて滝つぼを作ります。滝つぼに落ちた水は、末広がりに手前の大海へと注ぎます。滝つぼに1石小さな立石が見えます。これは滝を上ろうとしている鯉をイメージした石で、鯉魚石(りぎょせき)と呼びます。滝石組に鯉魚石の組み合わせは、非常に縁起の良い意味があります。
ここで鯉魚石について解説しましょう。中国には黄河の上流に竜門という激流があり、その下に多くの鯉が集まるが、ほとんどは急流を登ることができません。しかし、もし登ることができた鯉が現れたならば、その鯉は龍となるという故事成語があり、日本にも伝わっています。ここから出世することを約束されるような難関のことを登竜門といいます。そして、男の子の成長と出世を願って鯉のぼりが立てられるようになりました。そして、鯉の滝登りは、鎌倉時代に日本庭園の技法としても採用され、金閣寺庭園や天龍寺庭園の鯉魚石は有名です。
枯滝石組の右側に植栽してあるのはイロハモミジです。イロハモミジはヤマモミジと比べて葉が小さく、庭園には昔から人気の高い庭木です。滝石組に添えるようにして植栽してあるのには意味があります。滝を流れる水のしぶきに触れるようなイメージで、今後枝が伸びると立石を隠すようになります。このような庭木は、江戸時代に執筆された「築山庭造伝」に庭を美しく見せるための技法として記載されている「飛泉障(ひせんさわ)りの木」といいます。よって、今後の庭木管理としては、モミジの枝を立石がわに伸ばして、いずれは立石が見え隠れするように剪定していきます。
飛泉障りの木は滝をあらわにせず、見え隠れすることで、より一層深山幽谷の滝の趣を出すことができるという技法です。下の写真は旧古河庭園の滝ですが、こちらも飛泉障りの木としてモミジが自然に滝を覆っているように管理されています。もちろん放っておいて、たまたまこのようになったのではなく、剪定により管理されてこのような自然の植栽ができています。何もしていないように見せるのが、上手な剪定技術であり、日本庭園の美しさの秘訣でもあります。
夫婦石組
左奥に組み合わせてある大小の2石は夫婦の睦まじさを表す夫婦石組です。日本庭園の石組技法には、大小の2石を組み合わせて君主と臣下を表現した君臣石があります。君主と臣下との間が親密なことを意味します。雪舟庭園として全国的に有名な島根県益田市の萬福寺には君臣石が組まれています。
同様に、夫婦の仲の良い姿を表したのが夫婦石組です。右側の立石が夫を意味し、左側の石が婦人を意味します。それぞれ、寄り添うように傾き、2石で一体となるように組んでいます。石色と石質は合わせて、また他の石とは異質のものをわざと使用し、夫婦石の存在感と意味が際立つようにしています。
蹲踞(つくばい)
室町時代から安土桃山時代、侘び寂びの茶の湯を大成した千利休は、茶庭に欠かせない設備として蹲踞を考案し、その後、日本庭園の趣のある風情の象徴となりました。蹲踞は、手を洗うことに使われますが、蹲踞という言葉は、体を丸くしてしゃがんだ状態の事を意味しています。つまり、しゃがんで姿勢を低くした状態で水を汲んで手を洗うために使うための設備が蹲踞です。剣道や相撲などの武道において終始の礼として蹲踞(そんきょ)の姿勢をしますが、これが同様の姿を意味しています。
わざわざ姿勢を無理に低くしなくても手を洗えるように大きなサイズにした方が便利です。しかし、低くしたのには意味があります。それは、蹲踞は茶の湯の作法として利用される設備の一つだからです。茶の湯では、すべての客は平等であり、例え殿様であっても同等に扱われます。茶室に向かう途中に設置された蹲踞では、すべての人が背を低くして、頭を下げて、手と口を濯ぐことで身を清めます。そのためには、蹲踞は姿勢を低くして使うサイズになっている訳です。
蹲踞は基本的に、水を溜めてある手水鉢(ちょうずばち)と右側にある湯桶石(ゆおけいし)、左側にある手燭石(てしょくいし)、手前の前石(まえいし)の4つの役石が揃っています。
手水鉢は、水を溜める石ですので、蹲踞には欠かすことのできない石です。自然石を穿ったものが多くつかわれますが、今回は地元の島根県松江市宍道町にある来待地域でしかとれない来待石でつくられた、石臼を見立てとして使用しています。「来待石」は、宍道湖の南岸(松江市宍道町の来待地区周辺)に分布する「大森-来待層」で採れる1,400万年前(新第三紀中新世中期)の火山堆積物が海底に堆積して形成された「凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)」です。
湯桶石は、冬期の茶事の際、凍り付くような冷えた水鉢の水では使いずらいため、亭主が客のために桶に湯を張って置くための石です。よって、石の天端は平らになります。
手燭石は、夜の茶事の際に、客は手燭というロウソクを使った昔のランプをもって足元を照らしています。蹲踞で手を洗う際に手燭を置くための石となります。よって、手燭石も天端が平らになります。
前石は、人が立つための石です。前石と手水鉢の水穴の中心が大体70㎝程度の距離に据えると、蹲踞の姿勢で水を汲みやすくなります。
中央の玉石の場所は海と呼ばれ、水を流した時に跳ね返りするのを防いだり、水が溜まっている状態が丸見えにならないようになっています。ここが排水となるわけですが、海の下に壺を埋め込んで、落ちが水が反響するようにしたのが水琴窟(すいぎんくつ)です。
蹲踞の左側には、灯ろうを据えています。灯ろうは大陸から仏教とともに伝えられ、神社仏閣に最初に取り入れられましたが、千利休が茶庭への採用をしてから庭園に使われるようになりました。特に蹲踞の明り取りとしては、背が低くて蹲踞の景と合うものが良いとされ、茶人が独自で設計した灯ろうも多く造られました。灯ろうはあくまでも手水鉢の中心を照らしているものですので、灯ろうの向きは前石ではなく、手水鉢の水面を向きます。今回の灯ろうは、来待石製の六角雪見燈籠です。
手前に見える丸い石は飛び石の続きです。蹲踞は人が歩いて行けなければいけませんので、飛び石でつないでいるのです。
上述のように、蹲踞は通常茶庭に置かれるものです。よって、茶室があることがセットなわけですが、島根県出雲地方に独特の発展を遂げた出雲流庭園では、茶室の有無を問わず必ず蹲踞が置かれています。これは、松江城主七代目藩主松平不昧公が大名茶人として有名であり、現在も英雄として出雲地方で人気があることに由来します。
駕籠石と短冊石
出雲地方には、昭和時代に造られた2000も3000もの同じ配置の民家の庭園が存在する、非常に珍しい庭園文化を持ち、この庭園群を出雲流庭園と名付けられています。出雲流庭園の特徴の中に、駕籠石と短冊石があります。
島根県出雲地方は、江戸時代に松江城主が司る松江藩出雲国でありました。松江城主の松平家は徳川家康の親戚であり親藩として取り扱われていました。松江城主は参勤交代で江戸へ向かいましたが、回遊として出雲大社にも参られました。その際お宿として道中の大屋敷を利用され、宿として利用していただける屋敷は非常に名誉なことでした。選ばれた屋敷は御本陣と呼ばれ、家臣70名を引き連れて泊まれる大きな豪商屋敷でした。城主を迎えるには、城主専用の御成門を建設しなければなりません。城主は御成門から駕籠にのって入り、書院の前で駕籠からすぐに書院にあがりました。その際駕籠を置くための石として非常に大きな石を配していました。この石は駕籠を置くための石という意味で、駕籠石と呼ばれます。駕籠石は江戸時代が終わり、明治時代に入って各地に豪農屋敷ができた際にも造られ、そして昭和時代に民家にも造られていきました。
短冊石も同様に御本陣から昭和時代の民家にまで引き継がれたものです。短冊石は飛び石の一つの意匠として、長くて四角い石を2本並べたものです。駕籠石も短冊石も明治時代の豪農屋敷では、大きいものほど財力があり名誉であることを意味するようになりました。
中央の大きな平石が駕籠石です。飛び石に続いて長い2本の延べ石が短冊石です。庭園の中心に配した駕籠石は非常に存在感があり、広い砂利の中に巡らされた飛び石をバランスよく束ねる景観的役割も果たしています。また、飛び石は行く先を意味しており、蹲踞に行くため、灯ろうに火を入れるためなどのつながりを表しています。今回は菜園との接続がなされています。飛び石は、平たい自然川石を使うのが出雲流庭園の習わしですが、部分的に意匠として石臼を配するのも独特の特徴です。
ひょうたんの島
ひょうたんは、古来、神霊が宿るものとされ祭具に用いられまし。そのくびれは吸い込んだ邪気を逃さず、末広がりの形は縁起の良いものとされ、お守りや魔除けとして用いられてきました。また、鈴なりに実る様子からは家運興隆や子孫繁栄の象徴ともされてきました。大名茶人として知られる松江城七代目藩主松平不昧公は、落款を始め様々なところにひょうたん形を使っていました。
今回は石組を配した庭園の山の部分、つまり島となる部分の形をひょうたんとしています。いわゆるひょうたん島をイメージしています。上空から見るとより鮮明ですが、左側と右側が膨らみ、中央が窪んでいるのがわかります。同時に築山の高さも、左側と右側が高く、中央は低くしています。まるで寝かせた大きなひょうたんが半分土中に埋まっているのを創造する形です。
また、ひょうたん島の石組は、ポイントごとに説明しましたが、全体としても一体となっていなければなりません。いったいとは、重心が安定しているという意味です。右側に石が偏っていたり、右と左のバランスがちぐはぐでは、いくらポイントが美しくとも、全体として違和感が出てしまいます。そのカギとなるのが、中央の向こう側にある石です。今回の石組では右側の枯滝石組が最も存在感があります。つぎに、左側の夫婦石と蹲踞です。よって、両サイドに重心が分散しています。それを繋ぐのが、中央部分手前に配しているクロマツの足元の景石と右側の護岸の景石です。そして、最後に据え付けるのが中央奥の景石で、この石の配置と高さによって、全体が安定して見えるか不安定に見えるかが決まります。
日本庭園は島などの地割、ポイントの美しさ、全体のバランス3つを調和した立体美的創造の場であることが分かります。
まとめ
今回の庭園は、出雲流庭園を基調とした縁起の良い日本庭園として細部にわたって解説していきました。まとめとして庭園の見せ場とポイントを列挙します。
・枯滝岩組ー深山幽谷の景、出雲流庭園ゆかりの立石
・飛泉障りの木ー伝統造園技法、イロハモミジ
・鯉魚石ー登竜門、立身出世
・夫婦石ー良縁、夫婦仲、家内安全
・蹲踞ー茶の湯の精神、日本の心、不昧公ゆかり
・ひょうたん島ー除災招福、子沢山
・駕籠石、短冊石ー御本陣ゆかり
地域の伝統文化を継承し、日本の精神を形にした縁起の良い日本庭園です。日本人が自然のあらゆるところに神が宿り、その神に願いを伝えることで、私たちの生活は安全に過ごせる安心感をもっとも大事にして来た神道の精神が引き継がれているように、この庭園には強い願いが込められています。
日本庭園は自然の縮図でありながら、そこには恣意的な要素が込められています。ここが世界で最も美しいと言われる所以です。その恣意的な要素には、よりよい暮らしへの願いが込められています。つまり、日本庭園とはそもそも縁起の良い庭園なのです。その意味を知ることで、日本庭園の価値が分かります。日本庭園の価値とは単に美しさを競っているのではなく、願いが望みや祈りが込められた、唯一無二の存在なのです。
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