出雲流庭園とはどのような庭園ですか?

 出雲地方には、独特の発展を遂げた日本庭園があります。日本全国に日本庭園はありますが、出雲地方の日本庭園はあまりにも特異な日本庭園であるため、昭和50年1月10日に発行された書籍「出雲流庭園 歴史と造形」において出雲流庭園と名付けられた経緯があります。
 それでは、出雲流庭園にはどのような特徴があるのでしょうか。具体的に見てみましょう。

島根県出雲市

まるで金太郎飴

 出雲空港に降り立つ飛行機の窓から見ると、家々には必ずと言ってよいほど庭が造られています。無数の庭が点在する風景はとても素晴らしいですが、何千もの庭がどこも同じ形なのですから、これは驚くべきことです。隣もその隣も、同じ形で同じ配置、まるで金太郎飴を切ったかのように、出雲地方の庭は決まった配置をしています。ここに見える多くの家は、昭和の時代に建築され、高度経済成長期には家とともに南庭に立派な日本庭園が造られました。出雲に暮らす人々は、どの家に行っても同じ庭であることに何の違和感もなく、むしろ、日本庭園とはそういうものだと認識していました。しかし、昭和49年に東京から2人の専門家が出雲地方の民家庭園を調査した際に、このような庭園群をもった地域は全国的にも珍しいことから、出雲流庭園と名付けました。
 それにしても、このような庭園群が全国でもこの出雲地方にだけ造られたのは何故でしょうか。一説には江戸時代に伝説の庭師がいて、そこから出雲流庭園の様式が伝えられたという噂があります。しかし、そこまでの庭師であれば文献や当時の何か証のようなものが残されていてもいいはずですが、実際は実証するものはありませんでした。未だに謎多き出雲流庭園ですが、現在も現地の専門家や組織が存在の原点を研究しているところです。しかし、出雲流庭園が出雲地方の歴史伝統文化を継承し、この地域のコミュニティーや人柄を反映しているものであることは間違いありません。
 出雲流庭園が始まったと思われる時代へ遡って順にみていきましょう。

上空から見た宍道湖西側の出雲平野

江戸時代の出雲流庭園はお殿様のお慰みであった

 江戸時代の出雲国は松江藩が治めていました。堀尾家2代、京極家1代の後、出雲国へ入国した松平家は、以後10代にわたり松江藩主として出雲国18万6千石を支配します。松平家初代松江藩主である松平直政(1601-66)は、徳川家康の次男・結城秀康の三男であり、二人の天下人・徳川家康と豊臣秀吉の孫にあたります。
 松江城主は参勤交代により江戸と国元を往復していました。それとは別に、藩主が自らの領内を巡察する御出郷があり、その目的は、祈願、視察、羽合、領民生活文化の高揚などでした。その際にお宿として利用した屋敷を出雲の御本陣と呼びます。屋敷といっても、家来を引き連れて70人といわれる数が宿として使えるような大屋敷でないと対応ができません。それだけの経済的余裕と人員配置が可能な地域の名士が選ばれました。
 出雲の御本陣の庭園は、藩主が街道からお駕籠のままで御成門を通って庭園に入りました。御成座敷前に据えられたひと際大きなお駕籠石にお駕籠を置いて出御になり、飛石を渡って座敷前の下駄付き石から縁にあがり書院上の間に入ります。当時は築庭は贅沢禁止に抵触する最たるものでした。御本陣では藩主のお慰みとして特別に許されていました。
 現在でも、いくつかの御本陣は公開されており、実際に建物や庭園を見ることができます。庭園はそれぞれに特徴がありますが、共通点がいくつかあります。この共通点こそが、出雲流庭園が今に残る理由と考えられています。

江戸時代の出雲流庭園の特徴

 江戸時代の御本陣にみる出雲流庭園の特徴は主に以下の通りです。
・御成門がある
・飛石が御成門から書院につながっている
・書院前に大きな駕籠石がある
・大きな短冊石がある
・飛石の一部に石臼が使用されている
・長年仕立てられたクロマツがある
・常緑樹の割合が多い
・特長的な灯ろうが多く配されている
・大きな手水鉢がある
・大きな立石や山、滝などがある

国の名勝に指定された絲原家の出雲流庭園 中央に駕籠石 その奥に石臼と短冊石
絲原家の御成門 松江城主は駕籠のままここから庭園に入った
雲龍型と呼ばれる雲を登る龍のような仕立てのクロマツ
平田本陣の出雲流庭園 常緑樹が多い 灯ろうが多く配される
八雲本陣の片袖の手水鉢

明治時代の出雲流庭園は豪農庭園であった

 江戸時代が終わり、明治時代になると、各地の地主豪農が発展しました。豪農屋敷には大きな庭園が造られましたが、その庭園にはこの地域独特の特徴がありました。その特徴は江戸時代の御本陣を見本にしたような庭園のつくりでした。主な特徴については以下の通りです。
・中門がある
・飛石が中門から書院につながっている
・書院前に大きな駕籠石がある
・大きな短冊石がある
・飛石の一部に石臼が使用されている
・中央に仕立てられたクロマツがある
・常緑樹の割合が多い
・立灯ろうや雪見灯篭が多く配されている
・大きな手水鉢がある
・裏鬼門に五重塔、滝石組がある

出雲文化伝承館の中門 奥には五重塔
原鹿豪農屋敷の駕籠石と短冊石
出雲文化伝承館の手水鉢
出雲文化伝承館の常緑樹の多い庭園

昭和時代の出雲流庭園は民家の一大庭園群であった

 明治・大正時代が終わり、昭和時代になると、戦後高度経済成長期には出雲地方にも沢山の住宅が建設されました。この頃の出雲地方の住宅は、敷地に余裕があり、ほとんどの民家には庭園が造られました。庭園は日本庭園の枯山水様式が多く見られました。もちろん、この時期に住宅と庭園が非常に多く建設されたのは、出雲地方だけではありません。全国各地で建設ラッシュが始まりました。しかし、一つだけ、出雲地方にしか見られない不思議な点がありました。それは、向こう三軒両隣の庭園の形が全く同じという点です。それは、出雲地方全体に言えることで、つまり、この頃に作った庭園は出雲地方のほとんどが同じ形、同じ配置であったというのです。そして、その特徴は明治時代の豪農庭園を見本にしたような庭園のつくりでした。主な特徴については以下の通りです。
・飛石が玄関から書院につながっている
・書院前に大きな駕籠石がある
・短冊石がある
・中央に仕立てられたクロマツがある
・常緑樹の割合が多い
・東に立灯ろう、西に雪見灯篭がある
・玄関横に蹲踞がある
・裏鬼門に大きな立石がある

民家の庭園中央にあるクロマツ仕立物
民家の庭園の鬼門にある立石と雪見灯篭
民家の庭園の蹲踞と立灯ろう
民家の庭園の飛石と駕籠石と短冊石

 このように昭和の時代に数千もの同じ配置の岩が造られたのには、江戸時代から伝わった庭園の歴史を背景に発展したことが良く分かります。山陰の島根半島という場所も、江戸や京都で流行した禅宗由来の枯山水や大名庭園由来の池泉式庭園が、ここ出雲地方には入ってくることはなく、お陰で現在に受け継がれた独特の庭園様式となたのでしょう。また、出雲地方の気質は、和を以て貴しとなすのごとし、競争を嫌い協調を重んじる傾向にあります。それが向こう三軒両隣と同じ庭園を造ることにつながったのかもしれません。
 出雲流庭園は、出雲流といいながら、流派の祖はいません。自然発生的に広まったことから、当然に教科書もなく、まさに不立文字の世界です。よって、今となっては、出雲流庭園の発展の理由を現在残された庭から想像するほかありませんが、間違いなく出雲地方にとって貴重な財産であり、出雲地方の歴史伝統文化が息づいた証だと言えます。


【参考文献】
・小口基実 戸田芳樹.出雲流庭園[歴史と造形].小口庭園グリーンエクステリア.1975
・藤間亨 格式と伝統 出雲の御本陣.出雲市.2009

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